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最強の女子ゴルファー、ベーブ・ザハリアスは最強の女子アスリート!?

ベーブ・ザハリアスは1911年、アメリカ・テキサス州で生まれました。

生まれた時の名前はミルドレッド・エラ・ディドリクセンといい、両親はノルウェー出身でした。母親は有名なウインタースポーツ選手で、父親も運動能力が高かったと言われています。

1938年に結婚して、ザハリアス姓となります。呼び名の「ベーブ」は彼女が野球の試合で1試合に5本のホームランを打ち、当時のホームランバッター、ベーブ・ルースにちなんで「ベーブ」の愛称で呼ばれたのが生涯続きました。

現在、テキサス州ボーモントにある彼女の功績を飾った記念館も「ベーブ・ザハリアス記念館」と名付けられています。ザハリアスは日本ではなじみがありませんが、AP通信が選んだ20世紀の偉大なアスリート・ランキングで9位に入る国民的英雄です。

小さい頃から、運動能力を発揮したザハリアスは、野球、テニス、陸上競技、水泳、スケートなど、興味を持ったスポーツには天性の能力を発揮しました。1931年に野球の遠投で女子世界最長となる296フィート(約90m)を記録し、ギネス世界記録に認定されました。バスケットボールでは高校時代に全米代表にも選ばれています。
特に陸上競技では、18歳の時に五輪代表選考会に出場すると5種目で優勝。21歳で1932年のロサンゼルス・オリンピックに出場すると、やり投げと80mハードルで共に世界記録(やり投げ=43m68cm、80mハードル=11秒7)をたたき出して金メダルを獲得します。

走り高跳びでも記録は1番だったにもかかわらず、当時は認めてられていなかった頭からバーを飛び越える背面跳びを行ったため、記録は認められず銀メダルに終わっています。

一躍、アメリカ中のヒロインとなったザハリアスですが、CM出演で報酬を得たことが五輪規定に抵触し、アマチュアスポーツ界から締め出されてしまいます。ザハリアスはプロスポーツ界にその身を投じますが、選んだのがゴルフでした。

ドライバーは当時のクラブで250ヤードも飛ばしたと言われています。これは男性をも凌ぎました。ジーン・サラゼンと興行的なエキシビションに参加すると、ザハリアスは常にサラゼンをアウトドライブしたため、サラゼンはそっぽを向いて歩いていたと言われます。

当時はまだスコアもアベレージゴルファー並みでしたが、ザハリアスの性の才能がゴルフでも目覚めます。24歳になると、テキサス女子選手権で優勝するまでになりました。

1938年にプロレスラーだった、ジョージ・ザハリアスと結婚。夫の収入があることから、ザハリアスはゴルフ界ではアマチュアに戻ります。第二次世界大戦が終わった1946年から1947年にかけて、全米女子アマ、全英女子アマを含む大会15連勝と無敵ぶりを発揮しました。
当時、まだ全米女子プロゴルフ協会はありませんでしたが、1947年にスポンサーを得て女子ツアー9試合が行われました。

ザハリアスもプロに転向しますが、これは始まったばかりの女子プロツアーを宣伝するのに、五輪金メダリストであり、無敵のアマチュアだったザハリアスの存在が不可欠だったためでしょう。全ツアーの賞金総額は1万5000ドルでしたが、ザハリアスは4300ドル獲得してトップとなりました。

ザハリアスの軌跡として特筆すべきものが、1945年男子のロサンゼルスオープンに出場し予選を通過したことです。初日76、2日目81で予選を突破しますが、当時は3日目にも足切りがあり、結局順位は残せませんでした。ザハリアスは男子ツアーで予選を突破した、世界で初めての女性選手となりました。

女性の記録としては、2003年パク・セリが韓国男子ツアーのSBSスーパー・トーナメントで10位。2006年アジアンツアーSKテレコム・オープンで35位に入ったミッシェル・ウィーがいますが、彼女たちの先駆けの偉業を果たしたのがザハリアスでした。他には、全盛期のアニカ・ソレンスタム(2003年)、宮里藍(2005年)も男子ツアーに挑戦していますが、どちらも予選通過できませんでした。

1948年にゴルフ界を揺るがす事件が起こります。ザハリアスは全米オープン、全英オープンへの出場を宣言します。当時、参加資格に「男子に限る」との項目はありませんでした。まだ、ゴルフクラブには女性が入れないコースも多かった中で波紋を呼びました。

全米ゴルフ協会は早々と「全米オープンは男子のトーナメント」との声明を出しますが、全英協会は沈黙を守りました。結果的に、ザハリアスは出場を断念しますが、表裏に圧力があったとも言われます。

この事件の影響もあったのでしょう。ザハリアスは周囲と一緒に、1950年全米女子ゴルフ協会を創立させます。同年の全米女子オープンを優勝、ツアー6勝して賞金ランキング1位。1951年も7勝して賞金女王を2年連続で獲得します。

無敵のザハリアスの前に立ちはだかったのが、病魔でした。1953年に直腸ガンが見つかり、大手術に臨みます。医者は「競技に戻ることは不可能」との診断を下しますが、ザハリアスはなんと3ヶ月後にはトーナメントに復帰しました。そして1954年の全米女子オープンでは2位に12打差の圧倒的な強さで3回目の優勝を遂げました。

1955年、シーズン2勝を上げた後にガンの再発が判明します。再び療養生活に入ったザハリアスは、翌年45歳の若さでこの世を去りました。

3度の賞金女王、全米女子オープン3回優勝。しかしザハリアスは記録よりも、その存在が全米から愛されたヒロインとして、長く語り継がれるのです。

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