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宮里藍の引退。感動溢れるファイナルラウンドまでの軌跡

現役生活最後の最終18番に姿を見せた宮里藍は、そのトレードマークの笑顔を輝かせました。最終日は27位からスタートし、2バーディー、4ボギー。18番で2mのパーパットを決めた後、涙でくしゃくしゃになった笑顔を、2005年からキャディーを務めたミック・シーボーン氏や仲間たちがハグで迎えました。

今大会第1ラウンドで一緒に回ったポーラ・クリーマー(アメリカ)やヤニ・ツェン(台湾)は、共に予選落ちしながらこの地を離れず、18番で宮里を待っていました。同世代の二人はこれまで数々の優勝争いを演じたライバルでありながら、互いにリスペクトしあった親友でもあります。今大会主催者の粋な計らいで、予選ラウンドの組み合わせは宮里自身で選択した二人です。

大会前、宮里のリクエストで組み合わせが決まった事を知ったクリーマーは「ほんとに?知らなかった。聞いただけで涙が出そうになる。なんで私を・・・」と言葉が出なくなりました。そのクリーマーは火曜日に左手首を痛め、練習日ではクラブも握れないほどでした。それでも予選ラウンドに臨んだクリーマーは後半4番でプレーが続行できなくなり涙の棄権をしました。

「どうしてもアイと最後までプレーしたかった。アイに選んでもらってこんな光栄なことはない」と、クリーマーは棄権後も現地に留まり、18番で宮里を待ち受けていたのです。宮里も「18番で二人がいるのが分かったけど、見たら泣いてしまって、もうショットが打てないって。あまり(二人の方を)見ないようにしてました」と涙が入り交じった笑顔でコメントしました。

思い出の地でフィナーレ

宮里が最後に選んだ舞台は、フランス南東部のエビアンリゾートGC、米ツアーメジャー最終戦のエビアン選手権でした。宮里はこの地で開催された2009年のエビアン・マスターズで、米女子ツアー初優勝を飾った思い出の場所です。

当時はメジャー大会になっていませんでしたが、宮里はあくまでメジャータイトルにこだわってラストゲームの場所を選択しました。「メジャー優勝か、米ツアー賞金女王が目標」と、2006年から本格的に米LPGAツアーに挑戦してきた宮里にとって、引退までのモチベーションもメジャーをターゲットにしたのです。米LPGAもこの小さなヒロインにはなむけの言葉を送っています。「アイはLPGAに愛をもたらし、全員を恋しくさせる力がある」と公式サイトで特集を組みました。

32歳という若さで引退する宮里を惜しんだのはファンだけではありません。米LPGAツアーで優勝を競った引退選手や、現役選手が宮里に会いにきました。それぞれに抱き合い、写真を一緒にとって最後のプレーを見守ったのです。

「礼儀正しさ」が宮里の身上

2000年に行われたサントリーレディスに出場した14歳、中学生の宮里の印象を解説者の戸張捷氏が紹介しています。

「中学校の制服を着て、関係者の人々にハキハキとした言葉で挨拶してました。サントリーの人達も、あんな子はいない、と驚くほどの礼儀正しさでした」。大会は4日間、23位で終了したものの、宮里は「一緒に回ったプロの方々を見て、本当に勉強させてもらいました。こういう機会を与えていただいたサントリーさんに感謝します」と話したと言います。

この出会いは、宮里がプロ転向してからの所属契約に結びつき、宮里にとって今年6月のサントリーレディスを引退前の国内最終戦に選んだのも、恩返しだったのでしょう。サントリーも宮里の引退後も生涯スポンサーとなることを表明しています。

宮里は兄・聖志、優作と3兄妹ともプロゴルファーとして有名です。兄2人が3歳からゴルフを始めたのに対し、藍が3歳から始めたのはピアノでした。ゴルフを始めたのは4歳からですが、9歳で初めてホールインワンを記録してから、将来の目標だった「ピアノの先生」を止めました。

小さなヒロインの誕生

中学生になると米国サンディエゴの世界ジュニアに出場します。中学2年ではダイキンオーキッドアマチュアゴルフ選手権(沖縄)で優勝し、同年のダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメントでLPGA(日本女子プロゴルフ協会)ツアー初出場を果たしています。

兄・優作は宮城県仙台市の東北福祉大で活躍しており、宮里は優作を頼って仙台の東北高校に進学。韓国で行われた釜山アジア大会で金メダルを獲得、LPGAツアーのフジサンケイレディスクラシックでアマチュアながら優勝争いに加わり、最終4位に入りました。

何といっても宮里の一生を決めたのは、2003年9月のミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメントでした。高校生で出場した宮里は最終日トップに1打差でスタート。後半戦まで優勝争いがもつれ、最終18番で宮里が見事バーディーを決め、同大会30年ぶりのアマチュア優勝を果たします。

155cmの小さなヒロインの誕生です。この優勝は、LPGAにとっても、宮里本人にとっても、まさにグッドタイミングでした。当時、日本女子プロゴルフ協会の樋口久子元会長が制度改革をしている真っ只中でした。有望な若手を発掘するために、ツアー優勝者にツアーの出場権を与える制度を実施したのです。これによって、宮里は2004年9月のツアー出場権を得ます。これによって、宮里は優勝から1ヶ月後、プロ入りを表明し、史上初の高校性プロゴルファーが誕生したのです。

藍ちゃんフィーバー

プロ宣言後のシーズン、2004年の開幕戦、ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメントで早々とプロ初優勝。藍ちゃんフィーバーがいっそう盛り上がります。全大会で宮里の後を追って、テレビクルーやカメラマンが動き、宮里の一挙手一投足を取り上げました。

メディアの申し子となった宮里ですが、カメラの前はもちろん普段から笑顔を絶やさず、インタビューにも真摯に答えていました。そんな宮里の姿を見たゴルフを知らない人達までファンになり、コースを訪れ、テレビのスイッチを入れました。

協会体質の改革を唱えていた樋口元会長にとっても大きなチャンスでした。米ツアーの環境を肌で知り、日本が格段に遅れていたファンサービスを拡充させるのに宮里の存在がぴったり当てはまったのです。

ラウンドや練習後に帰ってきた選手のサインタイムをシステム化しました。運営側がファンを整列させる場所を作り、あまりに長い列となった場合、スタッフが列を区切って人数制限をするようになりました。スタッフが順番を作るとか、マジックペンを用意するなどの対応は、宮里によって生まれたシステムとなったのです。

テレビの女子ゴルフ番組の視聴率が2桁になったのは、さらに大きな影響を生みました。当時の視聴者はお父さん世代でしたが、一緒に何となくテレビを見つめていた当時の少女達にとって「藍ちゃん」は身近な存在であり、現在LPGAで輝く若いプロゴルファーとなって羽ばたいているのです。

まさに、日本女子ゴルフ界にあって、宮里は「救世主」でもありました。

米LPGAツアー挑戦へ

デビューした2004年はツアー5勝を上げ、年間獲得賞金額は1億円を超えました。賞金女王は逃したものの、賞金ランキング2位となり、オフシーズンでもゴルフ界の小さなヒロインの話題は絶えませんでした。テレビのCM、ワイドショーにも卓球の福原愛と並び、取り上げられます。

人気が益々高まる中、2005年10月の日本女子オープンゴルフ選手権競技で国内メジャー初優勝、同大会史上最年少優勝を果たしました。藍ちゃんフィーバーを物語るように同大会最終日には、史上初めてギャラリーが2万人を超えました。

宮里の周りにはさらにメディア、ファンが群がりましたが、宮里は常に笑顔を絶やさず真面目に対応していました。しかし、知らず知らずに本人にはプレッシャーとなっていったのでしょう。宮里にとって、日本を飛び出し新たな海外での挑戦への心が燃え上がっていったのです。

2005年のシーズンは最終戦を残し、宮里は賞金ランキング1位でしたが、それでも最終戦を欠場して米LPGAツアー最終予選会に出場したのです。

フロリダで行われた予選会は5日間90ホールを戦い、合計17アンダー、2位に12打差をつける驚異的なスコアで圧勝します。宮里は2006年からの米LPGAツアー挑戦権を得ました。結局、国内賞金ランキングは2位に終わりましたが、宮里にとって賞金女王より2006年への切符を選んだのです。

アメリカでも躍進

米ツアーデビューの年、宮里はメジャーで全米女子プロゴルフ選手権3位タイ、全英女子オープンゴルフ9位など、ツアー21大会に出場し、19大会で予選通過。優勝こそなかったものの、賞金ランキング22位でした。

2009年のエビアンマスターズで米ツアー初優勝を飾り、全米女子オープン6位タイ、全英女子オープン3位タイと好調をキープしました。2010年は宮里が一番輝いたシーズンでした。

開幕戦のホンダLPGAで6打差を逆転優勝、続くHSBC女子チャンピオンズでも優勝し、日本人では初、LPGAでは史上5人目の開幕からの2週連続優勝を達成します。その後、トレスマリアス選手権、ショップライト・クラシックで優勝し、6月21日付けの世界ランキングで日本人初の1位となりました。

さらにセーフウェー・クラシックでも優勝し、岡本綾子の日本人最多優勝を超えるシーズン5勝目を挙げました。

米ツアーでも日本のメディアがついてまわりましたが、東洋から来た小さなヒロインの活躍に、米メディアも大きな関心を寄せました。宮里は外国クルーにも、日本と同様に真面目に対応しました。

2006年、本格的に米ツアー参戦前のテレビマッチでアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)と共演した時のエピソードがあります。通訳を務めた戸張氏が紹介しています。アニカは宮里に対して、通訳ではダメ、英語をしゃべりなさい、と言い、そうしないとアメリカは貴女の気持ちを分かってくれない、と伝えたのです。北欧から来た女王の言葉には重みがありました。

宮里は左手にしていたグローブにその他のアドバイスも書き込み、丁寧にたたんでバッグにしまいました。アニカのアドバイス通り、宮里は外国メディアに英語で答え、スピーチしました。その態度によって、宮里は外国メディア、ファンにも愛される存在になったのです。

陰るモチベーション

2012年のアーカンソー選手権で米ツアー9勝目を挙げて以来、宮里は優勝から遠ざかりました。メジャーでも2013年以降10位以内に入れなくなります。当時、世界のゴルフスタイルは飛距離を活かしたパワーゴルフへと変貌していました。

ドライバーで遠くへ飛ばし、セカンドは高弾道でグリーンに止まるショットを打つ。レクシー・トンプソン(アメリカ)やミシェル・ウィー(アメリカ)のように、ティーショットで260ヤード以上飛ばせる選手が台頭していました。

宮里も5番アイアンを捨て、高い弾道が得られるユーティリティを活用してセカンドの精度を高めようとしました。しかし、様々な工夫をやり尽くしてもパワーゴルフの前に為す術がなくなっていました。小さな宮里にとって、飛距離は超えられない壁だったのです。

さらに2013年9月のミヤギテレビ杯ダンロップ女子で、最終日14番まで2位に4打差つけながら、3パットを2回して優勝を逃します。この時、イップスが宮里に襲いかかります。得意なショートゲームも精彩を欠きました。

宮里にとって、米メジャーで優勝、あるいは米ツアー賞金女王になることが、ゴルフを続けるモチベーションでした。ところが、どうやっても近づけない目標を意識せざるを得なくなっていたのでした。

若くしての引退宣言

今年5月29日、宮里は日本で今季限りの引退を記者会見で表明しました。32歳でツアーを離れるニュースは日本はもちろん、世界のメディア、一緒に戦っていたライバルたちも驚かせました。引退を決意したのは、2016年夏だったと言います。

「オリンピックで3週間くらいツアーが休みになった時期に決めました。プロになっての初めての長期休みで、自分の気持ちについてゆっくり考える時間がありました。それまではずっとモヤモヤがあっても試合はこなしていかないといけないので。試合になればそこにエネルギーを使う。試合が無かった3週間で自分の中で整理をつけられました」。

優勝することへ限界を感じてしまったため、ツアーを続けるモチベーションがなくなった、と言いました。それでもプロ生活14年について、自分がやれることはやった、と達成感も口にしました。

当初、シーズン始めに発表する予定もあったのが、この時期になったのは宮里独特の気配りがあったのでしょう。スーパースターが引退するとなれば、国内大会運営側から宮里出場への争奪戦が起こるのは必至です。お世話になった多くの運営者、スポンサーに考慮して、水面下の争いを望まなかったのです。

国内大会はプロ入りからずっとサポートしてくれたサントリーが主催する6月のサントリーレディスを国内最終戦としました。国内選手の中には国産自動車メーカーがスポンサーであっても外国製高級車でゴルフ場に乗り付ける選手がいます。そんな中、宮里はスポンサーの一つ、ホンダのSUVを大切に乗っていました。まさに、宮里の礼儀正しさは最後まで変わりませんでした。

ファイナルは自分の思い出の地であり、メジャー最終戦のエビアン選手権とすることで、引退までの最後の3ヶ月にメジャー最後の挑戦という、モチベーションを振い起こしたのです。

3ヶ月は走馬灯のように

宮里の引退は、米メディアにとっても衝撃でした。6月の全米オープンでも宮里は引退の理由を尋ねられ、改めて「モチベーションの低下」と答えています。

こうした丁寧な対応している宮里の姿を、かつてジュリー・インクスター(アメリカ)が表現していました。

「すべての試合のラウンドで、それがたとえ練習ラウンドでも、彼女は多くの質問に答えなくてはならなかった、彼女の肩には重圧がかかっていた。彼女は国のために戦った」。

キャリア・グランドスラムを達成したインクスターの目には、コース以外で戦っていた宮里の姿が見えていました。

あらゆるメディアにも模範的な対応する宮里は知らず知らずに重荷を感じておりながら、いっさい表情には出しませんでした。そんな宮里にとって、下位に甘んじてもインタビューを求める日本のメディアが、他の選手にとって迷惑じゃないかとの気持ちがあったと推し量る人もいます。

宮里であれば、成績が悪い自分はインタビューを受ける資格がない、と思い込み、優勝できない、上位に入れない自分のモチベーションが静かに崩れていくのを感じたかもしれません。

反面、周囲に溶け込もうと本来の明るさで馴染み、他の選手と仲良くなったのも事実でした。ロレーナ・オチョア(メキシコ)、ヤニ・ツェン、ポーラ・クリーマーらと交流が生まれました。

最後のエビアン選手権まで、米国内を転戦していた宮里の下へ、かつての多くの仲間達が別れを伝えるためにやってきました。その中の一人に、元プロゴルファー、ミーガン・フランセラさんがいました。

現役時代、ドライバーの不振に見舞われたフランセラさんへ宮里が手紙を送ったことがあったのです。宮里自身、同じスランプに悩み選手生命の危機に襲われました。しかし、課題を克服する練習を重ね、その後米ツアー9勝を挙げたのです。

宮里は自分の経験からのアドバイスを手書きの3枚の手紙にして送ったのです。フランセラさんは「そんなことをするために、時間を割く人はいない」と、改めて感謝の気持ちを宮里に伝えたのです。

そして、これから

結果的に国内最終戦となったサントリーレディースの観客数は同大会史上最高の3万4637人となり、宮里のプレーを見守りました。

フランスの地で、クラブを置いた宮里は引退後について尋ねられると、「まったく白紙」と答えています。8月に全英リコー女子オープンで倒れた父・優さんの看病もあるでしょう。

テレビ局からは解説者として、LPGAは指導者として東京五輪のコーチ、他のスポーツ界からのアプローチなど、引く手あまたです。宮里としても、ゴルフとまったく縁のない世界へ飛び込むのは考えにくい事でしょう。

長く一緒に生活してきた男性の存在も一部に知られています。彼はすでに宮里ファミリーにとって家族の一員として処遇されているようでもあります。ツアーへのモチベーションがなくなった今、父・優さんの容態次第ではめでたくゴールインも遠くはないでしょう。

「藍」は辞書で最初の方に出てくる言葉であり、父・優さんがトップが取れるように、と名付けました。まさしく、宮里は父の思いをかなえ、記録でも記憶でもトップの選手として、我々の前から姿を消します。

しかし、再びあの笑顔が必ず戻ってくるでしょう。その時、彼女はどんな姿をしているか、今から楽しみです。

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