だから面白い!歴史に残る個性派ゴルファー達④無頼派の天才、戸田藤一郎編
戸田の人生哲学は、「自分が努力している姿は他人に見せず、人の前では豪放磊落に遊ぶ」でした。女と遊び、酒を浴びるように飲みながら、深夜一人で黙々と練習しました。
「ええかっこしー」、あるいは「小心」。この戸田の性格が、彼のゴルフ人生を左右します。
10歳の時に滋賀・甲南カントリークラブでキャディとして働きました。お客さんのプレーを盗み見しながらゴルフを覚えます。兵庫・廣野ゴルフクラブに移ると18歳でプロの資格を得ました。
廣野ゴルフクラブでの猛練習は、戸田の死後、伝え聞いて分かったことでした。200ヤード先にある松を目標に、毎日何百発、何千発とアイアンで打ち込み、ついに松を枯らしてしまったことがありました。それは当時の第一人者、宮本留吉に勝つためでした。
「わしは天才と呼ばれるのが大嫌いや!天才なもんか。天才は留はん(宮本留吉)や。わいは努力型の男や。みんなが眠っている時にそっと床を離れ、気づかれんうちに練習し、またそっと床に入り、そして、また早く起きてボールをかき集めに行く。そんな努力をしたからこそ、ええ球が打てたんや」(戸田)
ゴルフの試合では、黒いシャツ、黒いズボン、黒いサングラスで試合に臨みました。これは、相手に心を読まれないためでした。
1933年の関西オープンで18歳の戸田が当時トップの宮本留吉を1打差で下し、初優勝を飾ります。関西プロも優勝、20歳で日本プロ制覇と破竹の快進撃をします。
1935年には渡米して、日本人として初めてマスターズ出場を果たし29位となります。当時アメリカのトッププロ、ウォルター・ヘーゲンが回顧録で日本からきた6選手の中の戸田を評し、「素質抜群、外国勢でもトップクラス」と書いていました。
帰国してからも戸田の勢いは衰えず、1939年には日本オープン、日本プロ、関西オープン、関西プロを総なめし、当時の日本のグランドスラムを達成しました。
人生がプラスの絶頂かと思える時、戸田のマイナス部分も姿を現します。大酒を飲み、女に溺れ、借金も。倶楽部のメンバーのゴルフクラブを勝手に売り払ったことも。結局、1948年にゴルフ界を追放されます。プロ資格を剥奪され、トーナメントは出入り禁止、レッスンプロの資格も失いました。
この後、戸田は姿を隠しますが、ギャンブルや賭けゴルフで稼いでいたようです。1959年にプロ復帰を許されると、1963年の日本オープンで48歳最年長で優勝し、その腕が錆び付いていないことを証明しました。1971年には、57歳の戸田が当時日の出の勢いの34歳杉原輝雄を関西プロで破った試合は名勝負として語られています。
戸田のスイングは「左手はハンドル、右手はアクセル」との言葉で現されています。「器用でパワーのある右手だから飛ぶ。左手はそえとくだけでいいんや」とも言っています。さらに興味深いことに、「扇風機は芯棒が不動やから、いつも同じ首振りができるんや」とゴルフスイングを扇風機に例えています。
当時、ゴルフスイングについて決まった理論はなく、1957年のカナダ・カップで優勝して日本にゴルフブームをもたらした中村寅吉でさえ、左右に大きく重心を移動するスウェースイングでした。それが、戸田はトップからフォローまで背骨を中心に、まるで扇風機の芯棒のようなスイングをしていたのです。
これは現代のワンピーススイングと思想がまったく一緒でした。まさに、先見の明、戸田が天才たる所以です。
晩年もゴルフ場建設にからむ金銭問題に巻き込まれ、住所を転々としました。最後は当時知り合った女性と一緒に、京都で蕎麦屋「藤十郎」を開き、そば打ちで生計を立てていました。
天才の名を欲しいままにしながら、ゴルフ界を追放される放蕩の限りを尽くした戸田。日本ゴルフ界の黎明期に確かな輝きを残した異才でもありました。