日本のゴルフ発祥に深く関わったファミリーヒストリー
赤星四郎は1895年(明治28年)、東京神楽坂で生まれました。麻布中学を卒業後、アメリカ・ローレンスビル高校へ留学、ペンシルバニア大学に進みゴルフと出会いますが、アメリカンフットボールの選手としても活躍します。飛行機のパイロット資格も取得するなど、運動神経抜群でした。
六郎は1901年(明治34年)、東京神楽坂で生まれると、四郎と同じくアメリカ・ローレンスビル高校へ留学。高校時代からゴルフ場所属のプロからゴルフを教わると、わずか2年でハンディ0と天才ぶりを発揮しました。プリンストン大学ではゴルフ部の選手として活躍します。
アメリカで本場のゴルフに触れる
ゴルファーとしての才能を開花させたのは六郎でした。1924年(大正13年)にパインハーストCCで開催された全米のトップアマチュアが参加した「スプリングス・トーナメント」で優勝。日本人として、海外のゴルフ大会初優勝を飾りました。
当時のアメリカは、ボビー・ジョーンズの最盛期であり、プロでもウォルター・ヘーゲン、ジーン・サラゼンらが台頭。ヒッコリーシャフトの時代からスチールシャフトが誕生し、ゴルフスイングが一気に進歩した時代でした。
赤星兄弟は、道具の進化がコース設計をも改善する様を間近に見たのです。後に日本でコース設計に携わるのに大きな財産となりました。さらに、六郎はボビー・ジョーンズのゴルフに対する姿勢に深く傾倒していました。それが、日本にゴルフの高邁な精神を伝えることになったのです。
父・弥之助の先見の明があってこそ
明治時代に高校からアメリカ留学を果たした赤星兄弟って何者?と思いませんか。実は、兄弟の長男・鐵馬(1883年;明治16年生まれ)もアメリカ・ロレンスヒルズ高校に留学し、ペンシルバニア大学を卒業後、27歳で帰国しています。
日本で結婚した鐵馬の新婚旅行は、それはそれは驚きです。政府関係者が随行し夫婦で世界一周と、現在でも考えられないほど豪華なものでした。これには兄弟の父・弥之助の存在がなくしてあり得ません。
江戸末期の1853年(嘉永5年)、鹿児島県(薩摩藩)で生まれた弥之助。同年にはペリーが浦賀に来航し日本は激動の時代が始まりました。
弥之助の妻・シズは後に明治政府の海軍大臣となる薩摩藩士、樺山資紀の姪でした。弥之助は樺山の欧州視察団に参加した際、大砲などの兵器メーカー、イギリス・アームストロング社、ドイツ・クルップ社の日本代理権を得ます。薩摩藩、明治政府の軍備御用達貿易商として巨万の富を得て、銀行業も始め、一大財閥を築いたのです。
1904年(明治37年)、弥之助は亡くなりますが、鐵馬がその巨額の財産を相続し、家業を継ぎました。その資産はスケールが大きく、当時鐵馬が住んでいた家はアメリカから移築させたものでした。さらに新居を立てた敷地は3万坪あり、現在その一部は成蹊大学となっています。ちなみに、ブラックバスを日本に移入させたのは鐵馬でした。
日本で活躍した四郎、六郎
四郎、六郎がアメリカでゴルフに出会うことができたのも、弥之助が築いた財力があってのことでした。四郎は1925年(大正14年)、先に帰国すると、翌年の日本アマチュア・ゴルフ選手権で優勝しました。
ゴルフは単なる勝ち負けでなく、友情や信頼を得ることが大切だ、と考えていた四郎。「アンジュレーションこそゲームの命。もしコースが湖面のように平坦続きならば、とうにゴルフは滅びていた」と、コース設計に没頭します。
北海道で初のゴルフ場となる、函館ゴルフ倶楽部湯の川ゴルフ場(函館市)を1927年(昭和2年)に完成。この時、四郎は32歳の若さでした。続いて霞ヶ関カンツリー倶楽部(1929年開場:埼玉・川越市)の設計に関わります。自然の地形をそのまま利用し、高低差、アンジュレーションを取り入れました。
四郎が設計したコースにはグリーンをハート型にしたり、貝殻模様を施したりと意匠を凝ったものもあります。さらに熱海ゴルフ倶楽部(1939年開場:静岡・熱海市)など、1982年(昭和57年)伊豆にらやまカントリークラブ(静岡・伊豆の国市)まで、18のゴルフコース設計に携わりました。
ゴルフ精神の伝道者だった
兄・四郎の帰国を見送った六郎は、そのままゴルフの本場、イングランドとスコットランドに渡り、本場のゴルフ場を回って、日本に帰国しました。六郎も四郎と同様、コースを設計を始めました。その設計思想は「コースは正当な攻略ルートがあり、それを外れると苦労する」というものでした。
現在も名門と語られる、我孫子ゴルフ倶楽部(千葉・我孫子市)、相模カンツリー倶楽部(神奈川県・大和市)を設計したのが六郎です。さらに、ジーン・サラゼンがサンドウェッジを発明する前なのに、本場のコースのように深いバンカーを取り入れました。ある程度の技術をもたないプレーヤーは、バンカーに入れたら最後、お手上げでした。
六郎はゴルファーとしても非凡な才能を見せます。1927年(昭和2年)、第1回日本オープンゴルフ選手権が開催されますが、アマチュアでありながらプロを抑えて優勝したのは六郎でした。2位に10打差をつけての圧勝で、当時の日本で卓越した技術を披露したのです。権威あるこの大会でアマチュアで優勝したのは現在に至るまで六郎しかいません。
さらに、紳士のスポーツとして理想的なゴルファーの姿を自ら披露したのです。著作の中で、こんな言葉も残しています。
「ゴルファー諸君、ことゴルフに関する限り、舌を噛み切っても女々しい言い訳だけは唇に乗せてくれるな」
圧倒的な技量を持つ六郎の下には、多くのアマ選手ばかりでなく、宮本留吉、安田幸吉、戸田藤一郎といったプロも教えを請いました。そんな日本のゴルフ黎明期にあって、精神的な伝道者としても貢献したのです。
戦争が招いた悲劇
太平洋戦争(1941年~1945年)が始まると、ゴルフは敵性スポーツである、としてプレーすることもできなくなりました。四郎、六郎兄弟が日本で広げていたゴルフはこの頃、暗黒の時代を迎えるのでした。
六郎はゴルフができない間、釣りをして気をまぎらわしていましたが、古い釣り針が脚に刺さったことから敗血症をわずらい1944年に亡くなってしまいます。戦後しばらくコース設計の仕事もなかった四郎ですが、1954年(昭和29年)箱根カントリー倶楽部で再開します。昭和30年代に至っては、ほぼ毎年1コースを開場させるなど精力的に活動しました。
父・弥之助の財力によって、本場のゴルフの日本への伝道者となった四郎と六郎。戦争という悲劇はありましたが、日本の近代ゴルフの祖、となったのは間違いありません。