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史上最強のゴルファーは誰?③サム・スニード編

トレードマークはつばの前をおろし、後ろを上げた帽子のサム・スニード。ベン・ホーガンや、PGAツアーで11連勝を含む年間最多18勝の記録を持つバイロン・ネルソンと同じ、1912年生まれでした。これら最強のライバル達と戦いながら数々の記録を残しています。
PGAツアー通算82勝は、2位のタイガー・ウッズの79勝を抑えてトップ。マスターズにも3回優勝し、歴代4位タイ。1965年「グレーター・グリーンズボロ・オープン」ではツアー最年長、52歳10ヶ月で優勝。

67歳の時の1979年「クワッド・シティ・オープン」では「67」でまわり、PGAツアー唯一のエージシュートを達成します。その2日後の最終日に「66」をマークしています。1回だけでも、今後も出ない記録と言われていますが、なんと2回も達成しています。

メジャーはマスターズの他に全米プロゴルフ3勝、全英オープン1勝を挙げながら、全米オープンだけはプレーオフ敗退も含め2位が4回と優勝できず、「キャリア・グランドスラム」は逃しています。1979年には67歳2ヶ月でPGAツアー最年長予選通過を果たすなど、まさに長く輝かしい選手生活を送りました。

スニードはスポーツ万能でした。高校時代はゴルフに加え、野球、フットボール、陸上競技、バスケットボールでも活躍し、大学から特待生での勧誘も受けていました。結局、スニードはゴルフ部コーチの助言によって、プロゴルファーを目指しています。

そのスイングは「美しく流れるよう」「絹のような滑らか」と評され、ドライバーの飛距離は優に300ヤードを超えていた、と言われます。自著のタイトルに「ゴルフは音楽だ!」とあるように、スイングはリズムとタイミングが大切と著しています。

あまりにスムーズでムダがないため、スニードは「ボーン・スインガー」(生まれながらにして流麗なスインガー)とも呼ばれました。彼自身、「年をとったら良いスイングしか役に立たない」との言葉を残しています。まさに非凡な運動能力に裏付けされたスイングが、スニードの選手生活を支えていました。

ところが、そのスニードにとって最大の悩みがパッティングでした。1960年代になって、特に1メートル以内のパットがまったく入らなくなってしまいました。今で言う、イップスの状態のようです。そこで編み出したのが、「クラウチング・スタイル」のパッティングフォームでした。

カップに対して体を正対し、パットラインをまたいで構えます。両足の中心にあるボールを、体の真ん中で振り子のようにスイングしたパターで打つスタイルです。これで悩みは解決しましたが、仲間のプロたちからルールに反しているとのクレームが相次ぎ、禁止になってしまいました。

現在のゴルフルール規則16-1eにある「パットの線やその後方延長をまたいだり、踏むようなスタンスでストロークをしてはならない」は、このスニードの「クラウチング・スタイル」を禁止するために追加されました。しかし、スニードは諦めません。

今度はカップに正対した体はそのまま、パットラインの脇に足を揃えたままでパッティングするスタイルの誕生です。馬術のポロ競技のように馬に乗ったまま横で打つスタイルから、「サイドサドル・スタイル」と呼ばれました。

普通のパッティングスタイルでは左右の手で方向性、強さを合わせる必要があります。サイドサドルでは左手はパターを持つだけの支点となり、右手はストロークの強弱と両手の役割が分かれるため、動きがシンプルになります。また、カップの位置に正対しているため、ボール、カップを見るのも視線を動かすだけと、頭の位置が変わりません。こうしてスニードはパットの悩みから解放されました。

バージニアの田舎出身のスニードは陽気で純朴な性格でした。こんなエピソードがあります。オークランド・オープンで優勝した時、ニューヨークの新聞に彼の写真が掲載された時です。「どうやって俺の写真を撮ったんだろう。俺はまだニューヨークへは一度も行ったことがないのに・・・」(スニード)

マスターズの練習ラウンドで、「シューズを履くより裸足の方がスイングしやすい」と実際に裸足でラウンドして批判されたことも。また、セントアンドリュースのオールドコースを「農場」と呼んで、スコットランド人からひんしゅくを買ったこともあります。
彼は2002年、89歳でマスターズ始球式を務めた直後に脳卒中で倒れ、約1ヶ月半後に亡くなりました。まさに生涯がゴルフと共にあったのが、サム・スニードです。天真爛漫な性格と卓越した運動能力が、彼を「最強のゴルファー」の一人としたのです。

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