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史上最強のゴルファーは誰?②ベン・ホーガン編

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コース戦略を組み立てながらフェアウェイを見つめる鋭い眼差しから、ホーガンについたあだ名が「ザ・ホーク」(鷹)。

さらに、まったく感情を表に出さない冷静なラウンドから、「アイス・マン」(氷の男)とも呼ばれました。

ラウンド中でもほとんど会話をせず、親善試合でさえ同伴競技者がナイスオン、バーディーを奪っても無口。グリーンでピンが左にきってあるところに、ドローボールで攻めた同伴者に対して「グッド」と評したものの、ラウンド中にはこの一言だけだった、とのエピソードもあります。

ホーガンの全盛期は、1940年代の後半でした。1946年には全米プロのメジャーを含む年間最多勝の13勝を挙げます。これはバイロン・ネルソンの18勝に次ぐ歴代2位(1945年)。さらに1948年にも最多勝の10勝でした。

この記録は、ジャック・ニクラスの最多勝が7勝(1972年、1973年)、タイガー・ウッズは9勝(2000年)と比べても遜色のない数字です。まして、ホーガンの時代は、年間最多賞記録のネルソンや、PGA最多82勝を記録したサム・スニードと同時代で戦った上での成績です。

さらにホーガンの名前が現代に伝えられるのは、そのゴルフ理論です。不思議なベールに包まれたエピソードが、彼の伝記「ベン・ホーガン」(カート・サンプソン著)にあります。

ホーガンの話では1946年の夏のある夜、夢の中でゴルフスイングの「極意」を悟ったというのです。ただし、その「極意」について、ホーガンは生涯秘密としました。

そのヒントとして、「左手のグリップはウイーク。バックスイングはフェースをオープンに開きながら振り上げる。トップからは左手首を内側に折り込む」とコメントを残しています。さらに、「アベレージゴルファーにはまったく役にたたないだろう。仮に言うとおりにしたら、その人のゴルフはめちゃくちゃになる」と、まったく不思議な「極意」でした。

ホーガンの先祖は、アイルランドからの移民でした。父親は鍛冶屋で、その家庭は貧困に喘ぎました。父は彼が9歳の時に自殺、幼いホーガンはチップももらえるゴルフのキャディを11歳から始めます。これが、ホーガン自身がゴルフに出会うきっかけとなりました。

19歳でプロになったホーガンを待っていたのは、厚い壁でした。まるで成績が残せず、賞金が得られません。生活に窮するようになっても、ホーガンは諦めませんでした。毎日ひたすら練習して、手の平が血で真っ赤になるほどクラブを握りました。

ホーガン自身も、自伝の中で「3日休めば、元に戻すのに3ヶ月かかる気がして毎日練習した」と綴っています。170センチ、64キロと身体的にもゴルフ選手として恵まれなかったホーガンにとっては、練習しかありませんでした。

ホーガンがプロで活躍できるようになったのは、30代半ばでした。その膨大な練習量のおかげで自分のスイングを確立し、「私はクラブフェースの3つ目の溝で打つようにしている」との言葉まで残しています。

ホーガンは左利きでしたが、ゴルフは右打ちでした。左腕でスイングを引っ張るようなパワフルな打ち方は、飛距離も他を圧倒しました。当時のドライビング・コンテストにも出場するほどでした。

そんなホーガンのスイングが動画に残っています。

実は全盛期、強いホーガンは大衆に人気がありませんでした。バーディを決めても無表情、同伴のプレーヤーにも無関心で、ギャラリーからは嫌われていました。日本の相撲で言えば、あまりに強くて嫌われた元横綱北の湖のような存在だったのでしょう。

そんなホーガンを、1949年に悲劇が襲います。自動車を運転している時に、バスと正面衝突を起こす大事故。ホーガンは、骨盤の複雑骨折、鎖骨、左足のくるぶし、肋骨を骨折し、身体の至るところに血栓ができ、生きているだけでも奇跡。あまつさえ、ゴルフなどは論外、歩行さえ満足にできないと医師から診断されたほどでした。

この事故には思わぬ反響も。ホーガンは事故当時、同乗していた妻・バレリーを守るため、妻の膝の上に身体を投げ出し、自らが多くの傷を負ったのです。この行為に対して、大衆はホーガンのピュアな心を理解し、その後の復活を熱烈に歓迎することになったのです。

1950年、事故からわずか11ヶ月後の「ロサンゼルス・オープン」にホーガンがエントリーします。足を引きずりながらの18ホール、循環器系の故障に息も絶え絶えながらプレーしたホーガン。なんと、優勝したサム・スニードに続く2位に入りました。

さらにその5ヶ月後、「全米オープン」に出場すると、3人のプレーオフを制して2度目の優勝を果たします。ホーガンはフェアウェイに跡が残るくらい足を引きずってプレーしました。

どうしても悲哀を感じさせるプレースタイルながら、ホーガン自身は苦しいとか、痛いとかの感情をまったく見せない無表情でのプレーに終始します。その態度は、逆に大衆の大きな支持を得ました。

Crowne Plaza Invitational at Colonial - Final Round

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「ベン・ホーガンを大統領に!どうせならゴルフの上手な方を選ぼう」。アメリカには、こんなステッカーまであります。歴代アメリカ大統領のみんながゴルフ好き、との背景がありますが、ホーガンが国民的な人気を得ていたことが分かります。

ホーガンは、メジャー9勝を含むPGAツアーで通算64勝しました。キャリア・グランドスラムも達成しています。

引退後、ホーガンは「モダン・ゴルフ」(日本語版タイトル)を著します。これは現代のプロゴルファーにとっても教則本として伝えられるほどの内容です。スイング・プレーンを意識した彼のスイング理論は、その後のゴルフスイングに大きな影響を与えています。

ホーガンはクラブメーカーも設立し、「ベン・ホーガン」ブランドは現在も根強い人気があります。

貧しい境遇の中、自らゴルフ理論を打ちたて、絶望的な事故に遭いながら驚異的な復活を遂げたホーガン。真面目にゴルフに取り組んだ「最強の人」でした。

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