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日本人最強のゴルファーは誰?尾崎、青木、中嶋、AONの軌跡②青木功編

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2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)の会長に就任した青木功。永久シードの現役選手の会長職はこれが初めてと、今後のゴルフ界の改革が期待されます。

青木の日本ゴルフツアー通算51勝は2位、賞金王も5回。尾崎将司の国内ツアー94勝、賞金王12回と比べると見劣りしますが、青木はチャレンジする精神で、「記録」よりも「記憶」に残るプロゴルファーです。

141st Open Championship - Previews

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日本人だけでなく、世界中のゴルフファンが青木の存在を脳裏に焼き付けたのは、後に「バルタスロールの死闘」と名付けられた1980年の全米オープンでした。相手は当時40歳ですでに全米オープン3回も優勝のジャック・二クラウス。4日間とも同じペアリングでプレーし、大会はまるで2人のマッチプレーの様相を呈したのです。

2日目を終わって二クラウスが6アンダーで首位、青木は4アンダーで2位となり、決勝ラウンドに進みました。バルタスロールは7932ヤードのタフなコース。飛距離で二クラウスに劣る青木はミドルホールの2打目はほとんどフェアウェイウッドを選択します。

二クラウスの2打目は高い弾道、まるでドスン!と落ちるかのようにグリーンオンさせます。対する青木の2打目は低い弾道でコロコロ転がってしまい、多くはバンカーにつかまってしまいます。

アメリカのギャラリーはこれを見て、「オ~ノ~」と残念がりながら、内心「これでジャックが優位」と胸を高鳴らせますが、それから信じがたい光景を見せられることになったのです。

青木はバンカーショットを難なくピン側に寄せて1パットでパーを拾い続けます。またバンカーに入れ、またピン側に寄せパー。なんと青木はバンカーを狙って入れていたのです。それが青木の技術にとって、このコースを攻略する戦略でした。

さらに青木のパッティングは、ひどく前屈みのハンドダウンの構えからリストを使って、パチンと当てる当時でも珍しいスタイル。これで難しいパットもどんどんカップインさせ、3日目を終わって青木は二クラウスと並び首位タイになります。

Jack Nicklaus

最終日も最後までもつれました。攻める二クラウスに対し、青木が粘ります。

鮮やかなバンカーショットや、グリーン回りから転がすアプローチショットで1パット圏内につけるゴルフで食い下がります。17番ロングで二クラウスがバーディーを奪い、その差は2打と有利に。最終18番で2人ともバーディーチャンスに付けると、先に長いパットを二クラウスが沈めて優勝を決めました。

パターを高々と掲げて勝利を喜んだ二クラウスですが、慌ててギャラリーを制します。あまりの熱闘ぶりに興奮したギャラリーが、青木のパットが残っているのを忘れ、騒ぎ出してしまいました。

興奮が落ちつくと同時に青木の側でなにかをささやく二クラウス。うなずく青木もパットを沈めバーディー。何と2人のスコアとも当時の優勝レコードを上回っていました。

優勝インタビューで二クラウスは「アオキの100ヤード以内は世界一だ」とコメントしました。さらに、独特のゴルフスタイルも世界を驚かせた一つでした。

リストパッティングとも言われるパッティングフォームは、当時でも過去のもの。現代にも通じる手首を使わないショルダーストロークが主流だったのに、青木は自分のスタイルを貫きました。

Isao Aoki during the 68th PGA Championship held at Inverness Club in Toledo, Ohio. August 7-10, 1986. (Photograph by The PGA of America).

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また、通常のショットも深い前傾とべた足でリストターンによる打法を取り入れており、腰のターンを重視する主流ではありませんでした。さらに、アプローチも主流はピンデッドを狙うのに比べ、青木はランニングアプローチを多用し、時にはグリーン周りから5番アイアンを使うことも。こうした独特のスタイルで、当時の二クラウスに食い下がったのです。

特に時代遅れとも言われたパッティングスタイルは後日、二クラウスに「パッティングの教科書を書き変えないといけない」と言わせたほど。まして、世界中のゴルフファンにも「イサオ・アオキ」の名は強烈な印象を残したのです。

青木の海外での挑戦を支えたのは、1978年に再婚したチエ夫人の存在でした。米国人と結婚経験のあったチエ夫人は英語が堪能で、海外での青木の通訳兼体調管理から試合のエントリー、航空券、宿泊の手配など身の回りすべてを担当しました。

1978年に青木が世界マッチプレー選手権で日本人として海外で初めて優勝できたのも、当時交際していたチエ夫人の支援のおかげでした。

もともと、べらんめぇ口調、気さくであけっぴろげな性格の青木にとっては外国の水があったようです。英語が上手く話せなくても、外国選手に笑顔とボディランゲージで話しかけ、時にはチエ夫人の助けを借りながらも交友を広げました。

特に、ゴルフ界でも友人が少ないことで知られた「シルバーシャーク」ことグレッグ・ノーマンとは、親友の関係にまでなりました。ある人が見かけた場面で、青木がノーマンに日本語で話しかけ、ノーマンは英語で答えながら、なぜか会話が進んでいる状態に驚愕した、とのエピソードもあります。

1983年にはハワイアン・オープンで日本人初のPGAツアー優勝を果たします。この勝利も劇的でした。最終日18番ロングホールで3打目のアイアンショットでチップ・イン・イーグルを決めました。これでジャック・レナーに1打差をつけ、逆転優勝。これも、記憶に残る優勝シーンでした。

青木の海外ツアーへの参戦はシーズンを通してではなく、冬と夏だけ大会に出場するという季節に限った挑戦でした。移動による時差対策や日米のグリーンの違いなどに悩まされても続けました。その青木の苦労と印象的な海外での活躍があって、今の日本人ゴルファーの道が開かれたといっても過言ではありません。

丸山茂樹や石川遼、松山英樹らがシーズンを通して海外で参戦しているのも、青木が切り開いた道をたどっているのです。

Pacific Links Hawaii Championship - Round Two

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2014年にプロ入り50周年を迎え、2016年の中日クラウンズに73歳にして参戦。惜しくも足の痛みで初日ハーフで棄権したものの、青木のチャレンジ精神は今も健在です。

独特のプレースタイルを確立させ、世界に挑戦を続けた青木の存在は、まさに日本ゴルフ界のけん引者でした。日本ゴルフツアー機構の新会長としても、ゴルフ界の今後が楽しみです。

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