日本人最強のゴルファーは誰?尾崎、青木、中嶋、AONの軌跡③中嶋常幸編
中嶋は日本ツアーで48勝し、尾崎、青木に次いで歴代3位です。1985年には日本選手で初めて年間獲得賞金が1億円を突破し3回目の賞金王となるなど、年間賞金ランキング1位を4回達成しています。
また、世界4大メジャーでは1986年のマスターズと全英オープンで8位、1987年全米オープン9位、1988年全米プロゴルフ選手権3位とすべての大会で10位以内を達成しているただ一人の日本人です。
そのメジャーへの挑戦は、一方で波乱に満ちた道のりでした。
1978年、初出場のマスターズ2日目。アーメンコーナー最後の13番ホールに臨んだ中嶋に、オーガスタに棲むと言われる魔女が微笑みました。ティーショットが左のクリークに吸い込まれます。打ち直しの3打目もグリーン手前のクリークへ。
中嶋はクリーク内のボールを打ち直しせず、水中にあるまま打ちました。この4打目がなんと真上に上がり、落ちてきたボールが自分の足に当たります。ゴルフ規則19-2違反で2打罰。
ここで中嶋はクラブヘッドをハザード内の地面にこすりつけます。ヘッドに付いた泥をぬぐいましたが、この行為がゴルフ規則13-4b違反となり2打罰。結局ボールは打ち直しで、2打罰の11打目でやっとグリーンオン。2パットの計13となってしまいました。
この日、他の17ホールはすべてパープレイでした。魔の13番で13打たたいたこの日は13日の金曜日。今でもゴルフ史に残るエピソードとなっています。
同じ年の全英オープンでも、悲劇に見舞われます。3日目の17番ミドルを迎えた中嶋は、ここまで4アンダーで首位に1打差でした。2オンさせた3打目のバーディーパットが決まれば、首位に並びます。
ところが、カップをオーバーしたバーディーパットはそのままグリーンを転がり落ち、ガードバンカーに捕まってしまうのです。このコースのバンカーはロードバンカーと呼ばれ、小さくて丸い形ながら人の背丈ほどの深さがあるポットバンカーでした。
気をとりなおしてバンカーショットに臨む中嶋ですが、1打目で出ません。2打目、3打目・・・なんとバンカーから4打かかってやっと脱出。
このホールで「9」となり、優勝戦線から脱落してしまいます。中嶋はこの時、「ゴルフがこんなに残酷なスポーツだとは思わなかった。野球なら代打もあるのに、あの突き刺さるような視線の中で、出なくても出なくても最後まで自分でホールアウトしなければならないんだ」と話しています。
このセント・アンドリュースのオールドコース17番のロードバンカーは、中嶋の愛称をとって「トミーズ・バンカー」と呼ばれています。ちなみに、2000年の全英オープン最終日最終組のデビッド・デュバルもこのバンカーにつかまり、脱出に4打かかり、結局8打叩いています。
1987年、アメリカのオリンピッククラブ・レイクコースで開催された全米オープンでも、中嶋はあと一歩で優勝を逃しています。
15番ホールで単独首位にたった中嶋ですが、18番で第2打が松の大木に当たり、ボールが落ちてきませんでした。痛恨のロストボールでこのホール、ダブルボギーとして優勝争いから脱落します。
不運な例ばかりを紹介しましたが、そんなアクシデントにもめげず、中嶋はメジャーをはじめ、海外ツアーに挑戦し続けたのです。
練習量もプロ中トップクラスでした。ある若手プロに中嶋は毎日の打ち込む打球数を訪ね、「3000球ぐらい」との返答に対し、「数えられるうちは練習とは言わない」と答えています。また、用具にも常に気を使い、クラブセッティングもコースによって頻繁に変えたり、フィッティングにも常に注意を払っていました。
中嶋のターニングポイントが、1986年ターンベリーでの全英オープンと言われます。3日目を終え、首位のグレッグ・ノーマンに1打差の2位につけながら、最終日に7オーバーと崩れました。この時をきっかけに、中嶋は世界を制することができる球筋を求め、スイング改造に本格的に取り組みだしました。
セベ・バレステロスが「世界で5本の指に入る美しいスイング」と評された中嶋ですが、スイング改造はなかなか成果が出ませんでした。
やはり中嶋の最盛期は、これらの悲運の中で戦い続けた1980年代と言えます。2000年代に入るとシニアツアーにも顔を出し、2005年には日本シニアオープン、2006年の日本プロゴルフシニア選手権コマツカップも制しました。これで中嶋は、プロ、アマ、シニアを含めた「日本」と冠がついた公式戦を全部優勝し、7冠を達成しました。
近年は、マスターズの解説が好評です。2016年4月も、中嶋は解説を努めました。
13打の嫌な思い出もあるオーガスタながら、やはり自らの経験からコース攻略、ピンポジションの専門的な分析には定評があります。オーガスタの13番を語る中嶋は、悔いなどはまるで感じさせない、さわやかな口調で経験豊かな解説でした。
悲運に見舞われながら不屈の精神で戦い続けた中嶋は、同時に「ビッグ3」と呼ばれる日本のトップクラスに君臨し続けたのです。この悲運が中嶋を強くさせ、世界的な選手となったのでしょう。