日本にいた伝説のゴルファー④日本ゴルフ界初のスター中村寅吉編
1957年、世界30カ国から60選手が出場して、埼玉・霞ヶ関カンツリー倶楽部でカナダ・カップが開催されました。この大会は、現在のワールド・カップの前身です。そして、この大会でゴルフが国内に大衆化していくきっかけとなりました。
アメリカからはジーン・サラゼンとジミー・デマレのトッププロが参加、南アフリカには若手のゲーリー・プレーヤーがいました。日本からは当時42歳の中村と小野光一が出場しました。
遡ること12年、戦時中はゴルフは敵性競技と見なされ、さらに特権階級の遊戯として敬遠されていました。戦後も国内のゴルフ場は進駐軍に接収されたのが当時の日本ゴルフ界の現状でした。
アメリカが初日トップに立ちましたが、2日目日本はショートホールで中村がバンカーショットを直接カップインさせるなどの活躍で首位に立ちます。当時、日本では初めてゴルフのテレビ中継が行われていました。
日本は3日目も首位をキープし、最終日もアメリカを抑えて9打差で団体優勝。個人でも中村がスニードに7打差をつけて2冠に輝きます。これには日本中が盛り上がりました。
自動車があまり普及していない時代にもかかわらず、霞ヶ関カンツリー倶楽部の駐車場が足りなくなってしまい、米軍の横田基地から航空機が離発着する時に使う鉄板を借り、畑に敷き詰めて臨時駐車場にしたほど。観客は4日間で1万7350人の記録が残っています。
優勝した2人はオープンカーでパレードしました。まさに、この優勝で日本中がゴルフブームに包まれました。ざっくばらんでベランメー調でまくしたてる中村は、「トラさん」と親しみを込めて呼ばれ人気者になりました。以後、ゴルフ人口が急増し、各地にゴルフ場が造成されていったのです。
中村は小学校を卒業後、保土ヶ谷CCでキャディーとして働き、独学でゴルフを覚えました。158センチ、60キロに満たない小柄な体のため、プロになってもなかなか勝てませんでした。
そこで猛練習の末、中村は独自のスイングを身に付けます。バックスイングからトップまで頭も右に動かして、右足に体重を乗せます。そこからダウンスイングで一気に身体の左側に重心を移動させてクラブを振り切ります。「スウェー打法」と呼ばれ、現代のスイング理論とは相反するものです。
そもそも当時は確固たるスイング理論はありませんでした。小柄な中村が大きな選手の飛距離に負けないように考えたスイングですが、この打法は愛弟子の樋口久子に受け継がれていきます。
身体を大きく動かしながら、ヘッドはしっかりボールを捕らえるのは難しいことです。そのスイングを自分のものとするため、中村はそれこそ猛練習をしました。
軍隊時代は暇があれば隠れて棒切れで素振りをします。夜中の暗闇のグリーンでパットをし、左耳でカップインの音を聞いてヘッドアップしない練習。さらには、クラブハウスの屋根を越えるアイアンショットを打ちました。これは、ハウスの大きなガラスは当時の給料の倍のため、度胸をつけるための練習と豪語していました。
こうして、バックスイングの最後にもうひとひねりする独自の「2段モーション打法」を確立させました。「自信なき正統は、自信ある我流に負ける」中村の言葉です。
こうした努力によって、プロ入りして15年目、1950年の関東オープンで初優勝し、カナダ・カップで世界的な活躍を見せます。通算で日本オープン3勝、日本プロゴルフ選手権4勝を含め、ツアー25勝。シニアツアーでも12勝しました。
1981年、65歳で出場した関東プロゴルフ選手権の初日に「65」をマークし、日本で初の公式戦エージシュートを達成します。後進の指導にも尽力し、安田春雄、樋口久子などの選手を輩出しました。
2008年、92歳で永眠します。日本のゴルフ界復興に大きく貢献したトラさん。日本ゴルフ界で初めてのスターは、血のにじむような練習で自分の道を切り開いた人でした。