史上最強のゴルファーは誰?①ボビー・ジョーンズ編
ゴルフに対する真摯な態度、精神から「球聖」と呼ばれるボビー・ジョーンズは、生涯アマチュアを通しました。
本職は弁護士です。彼の強さを語るのに一番の称号は、彼が今でもただ一人の「グランドスラム」達成者であることです。
それは1930年の同一年に4大メジャーを制覇した偉業です。ジョーンズはグランドスラムを達成した7週間後に競技生活からの引退を発表して世間を驚かせます。まだ28歳の若さでした。
生涯に渡って4大メジャーを制することは「キャリア・グランドスラム」と呼びます。ゴルフのプロ選手では5人います。スポーツ界で「グランドスラム」という言葉が使われるようになったのは、ジョーンズが最初です。ちなみに、テニスの4大メジャー制覇、野球の満塁ホームランなどがグランドスラムと呼ばれます。
ただし、ジョーンズの4大メジャーは多少注釈がいります。その4タイトルは、全米オープン、全英オープンは現在と同じですが、残り2つは全米アマ、全英アマです。現在は最初の2つに全米プロゴルフ、マスターズが入ります。
当然、アマの大会にプロは出場できません。それでも当時のメジャー大会に全米アマ、全英アマが入っていたのは、それだけアマとプロの力が均衡していたのでしょう。その象徴がジョーンズでした。「プロより強いアマ」と呼ばれましたが、本当にそうだったのか、記録から見てみましょう。
ジョーンズが初めて全米オープンに優勝した1923年から引退する1930年までの8年間で、プロと争った全米オープン、全英オープンで16戦7勝しています。実に勝率4割3分8厘です。
当時ジョーンズの好敵手には、プロでジーン・サラゼン、ウォルター・ヘーゲンらがいます。特にウォルター・ヘーゲンは同じ時代に開催されていた全米プロゴルフ選手権(ジョーンズはアマなので不出場)で、1924年から4連覇を達成しています。その強敵を抑えての数字です。
4大メジャーといえば、18勝の最多記録を持つのがジャック・ニクラス。彼は2005年までメジャー合計160試合に出場しています。
これまた「偉業」ですが、後年の成績を勝率にするのはフェアではありません。ニクラスは1962年、22歳で初メジャー、全米オープンを手にします。ニクラスの全盛は、1975年までの14年間でメジャー14勝した時代だったでしょう。その勝率は、2割5分です。
ちなみに、トリプル・グランドスラム(メジャーをそれぞれ3勝以上)を達成したタイガー・ウッズは、初めてマスターズを制した1997年から最後のメジャータイトル、2008年の全米オープンまでの12年間で54戦14勝しています。この勝率は、2割5分9厘でした。ジョーンズの勝率が、いかに驚異的だったと分かります。
ボビー・ジョーンズのスイング動画が残っています。
近代ゴルフのスイングとは異なりますが、腰から始動し、柔らかく力みのないしなやかなスイングです。
ジョーンズのエピソードで有名な話があります。1925年の全米オープン初日、11番ホールでジョーンズは「アドレスの際、ボールが動いた」と申告し、自ら1打罰を課しました。
一緒に回っていたウォルター・ヘーゲンは「誰も見ていないので、ペナルティは必要ない」と進言しましたが、ジョーンズは聞きませんでした。結局最終日、ウィリー・マクファーレンとスコアが並び、プレーオフ2ホール目。ジョーンズは1打差で優勝を逃します。
この話は、ジョーンズの名言として残っています。
「スコアをごまかさなかった私をほめてくれるのは、銀行強盗をしなかった私をほめてくれるようなものである」
このアドレス後にボールが動いた時のルールは、2016年になってゴルフ規則が改訂され、プレーヤーの責任がなくなりました。
規則18-2b「アドレスをした後で動いた球」が削除され、ストローク中にボールが動いても、プレーヤーに原因はないと判断されました。ジョーンズが生きていたら、また何か名言を残してくれたでしょう。
ウォルター・ヘーゲンとも、こんな話が残っています。ジョーンズはヘーゲンから「どうして君はゴルフをやるんだ」と聞かれた時です。
「ゴルフを愛してるから、勝ちたい」
これに対してヘーゲンは、自分がゴルフをやる理由に、
「金のためさ。勝たなければ」と、答えました。
ジョーンズがゴルフを始めたのは幼い頃、身体が弱かったせいでした。今では「球聖」と呼ばれるジョーンズも10代の頃はやんちゃで、ミス・ショットをするとクラブを叩きつけたり、平気で周囲に罵詈雑言を浴びせていました。
1921年、初めて全英オープンに出場したセント・アンドリュースのオールドコースで、最初の9ホールだけで10オーバー。続く10番ホールでダブルボギー、11番でティーショットをバンカーに入れ、ダブルボギーパットも外してグリーン上で呆然としてしまいます。すると、ジョーンズはそのままホールアウトせず、スコアカードを破り捨てて逃げるようにコースを去りました。
さらに、同年の全米アマでは、ジョーンズが放り投げたクラブがギャラリーの女性の足にあたるという傍若無人な振る舞いで、全米ゴルフ協会から出場停止を勧告される羽目に。周囲から諭されたジョーンズは、ここでゴルフというプレーの本質に気がつきます。それが「オールドマン・パー」です。
「ゴルフは誰かに勝つというより、コースにいるオールドマン・パー(パーおじさん)を相手にプレーする」後に出版した自伝に書いています。
オールドマン・パーはバーディーもボギーも出しません。つまり、18ホールに設定されたパーと戦う。つまり、自分自身との戦いであると悟ります。この時から、プレースタイルがまったく変わりました。
グランドスラムを達成した直後に引退した理由は、はっきり残されていません。すべてやりきったと感じたのか、忙しい競技生活にストレスを感じていたのか。しかし、ジョーンズは弁護士の仕事のかたわら、ゴルフ界に関わっていきます。その大きな仕事が、「オーガスタナショナルGCとマスターズ・トーナメント」の創設でした。
ジョージア州オーガスタの果樹園に自然の起伏や小川がある場所を見つけると、ジョーンズは出資者を募って、オーガスタナショナルGCの設計に尽力します。そのお手本は、かつて自分が屈辱の棄権をした、セント・アンドリュースでした。
自然の傾斜をそのまま活かし、無駄に難しくするバンカーも減らし、まさにあるがままの地形に新しいコースを作りました。こうしてこのコースでは現在のメジャー大会、マスターズが開催されることになります。初めジョーンズは「マスターズ(達人たち)」という名前はいかにも思い上がっている、と反対でしたが、周囲の意見に流されたと言われています。
ジョーンズがゴルフ界に影響を与えたことが、もう一つあります。競技ゴルフの使用クラブ数を14本に決めたことに関わりました。
当時、クラブを31本持ったプレーヤーに対して、キャディーから「重すぎる」とクレームが協会に届き、本数の議論が盛んになっていました。1936年、英米のアマチュアによる持ち回りの大会「ウォーカー・カップ」の会場駐車場で、アメリカ代表のジョーンズと、イギリス代表のトニー・トーランスが車中で話し合いました。
グランドスラムを達成した時のジョーンズのクラブの本数は16本、トーランスが試合で使う本数は12本でした。そこでジョーンズは「間をとって14本」とトーランスに提案します。これをセント・アンドリュースのルール委員に告げ、1939年に規定となりました。
ジョーンズは46歳で脊髄空洞症を患ったことにより車椅子生活を余儀なくされ、69歳で亡くなりました。その死後に設立された「世界ゴルフ殿堂」には、最初に殿堂入りします。
何より、彼のゴルフに対する潔さ、真摯な精神は、その時代に大きな影響を与えました。さらに彼の名言となって、今でも現代のゴルファーの心に響いています。