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「米ゴルフ文化を導入した樋口久子編」-日本女子ゴルフ界の牽引者、樋口久子、岡本綾子(1)

全米プロ選手権優勝は、樋口最大の功績です。樋口は1967年第1回女子プロテストでトップ合格した女子プロ1期生です。1970年には佐々木マサ子と一緒に米ツアーに参戦しました。
毎年4月から6月の3ヶ月、約10試合の挑戦でした。1974年の豪州女子オープン、1976年コルゲート欧州オープンで優勝。そんな中、1977年の全米女子プロ選手権を迎えました。ショットが好調だった樋口は、3日目を終えて首位タイ4人の一人でした。

首位でスタートした最終日、樋口はスコアボードを見ないよう下を向いてラウンドしました。実は前週の試合は、最終日に自滅していました。

15番、バーディーチャンスがやってきてグリーンを読んでいると、前方のカメラマンが不意に動きます。すると、その後方のスコアボードが目に入り、「HIGUCHI」の名前が一番上にあったのが見えたのです。

それでも樋口は、強気にパットを決めてバーディーを取りました。16番は第2打をトップしてしまいます。18番ロングはティーショットを右へ。キャディーは「リラックス」を繰り返し、樋口は踏ん張ります。第2打を8番アイアンで残り100ヤードに寄せると、9番アイアンのハーフショットでピン横2mに3オンさせました。
この時、初めて意識的にスコアボードを見ました。2位に3打差。

「3パットしても勝てるんだ。あぁ、もうこれでゴルフを止めてもいいなと思いましたよね。よくアメリカに8年も来たものだ、とも」

と、樋口は当時を振り返ります。最終日のプレーは、今でも克明に覚えているといいます。最終日は69。通算9アンダーで優勝。アジア人初のメジャー優勝で、日本人では男女を通じて、未だに米メジャー優勝者は出ていません。

その樋口のゴルフスイングは、現代のスイング理論からすれば、まさに異端のフォームでした。

バックスイングではほとんど右足1本で立てるほど重心移動を行い、さらに上体をねじり左肩が右足の外側にまでまわっているので、完全なオーバースイングになっています。トップでのクラブヘッドの位置は、腰の位置にまで下がっています。

樋口の師匠は、中村寅吉でした。当時、日本ではスイング理論も確立されておらず、中村のスイングも小柄な体からヘッドスピードを挙げるため、右足に体重を乗せる「スウェー打法」でした。樋口のスイングは、師匠よりもさらにオーバースイングで体重移動の幅が大きくなっていました。プロとして、女性が飛距離を出すために選んだスイングでした。

通常、樋口のスイングではとてもボールには当たりません。それが、アメリカでは「マグネット・スイング」と呼ばれました。まるで磁石が吸い付くように、ダウンスイングで下ろされるヘッドがボールに当たったのです。無論、想像以上の猛練習がこのスイングを完成させたのです。

樋口ら女子プロ1期生が誕生した頃は、女子ゴルフの環境はまだまだ寂しいものでした。年間の試合数も5~6試合程度。それを樋口は勝ち続けます。日本女子プロ選手権は第1回から7年連続優勝、日本女子オープンは4年連続優勝しました。そんな実力を持った樋口が海外に目を向けるのも、国内での試合数の少なさがありました。

海外メジャーを樋口が制覇すると、国内の女子ゴルフも人気が上昇しました。樋口が全米女子プロを制覇した1977年、日本の女子ツアーの賞金総額は1億2000万円ちょっとでしたが、1980年には3億円を突破しました。

当時の理事長から、「樋口さんがいないと試合がない。日本にいてくれませんか」と言われた樋口、「目標のメジャーが取れ、10年の区切りにもなる」と日本に戻ることに決めました。

奇しくも、師の中村寅吉は日本で行われた1957年のカナダ・カップ(ワールドカップの前身)を個人・団体で優勝し、日本にゴルフ人気を起こしました。この師弟はそろって男女のゴルフ人気を盛り上げた立役者だったのです。

樋口は間違いなく、米ツアーの先駆者です。続いて岡本綾子、小林浩美、福嶋晃子、宮里藍らの道を切り開いたのです。

 

実はそれだけではありません。樋口はアメリカで流行しているゴルフ用品の小物や、プロショップで売られていた、帽子から靴下までコーディネートされたファッションを日本に持ち込みました。
まさに、日本女子ゴルフ界のファッションリーダーだったのです。今では華やかなファッションが楽しい女子ゴルフですが、その原点が樋口でした。そればかりでなく、現在プロが試合で使っているヤードブックも持ち帰りました。

米ツアーでは、選手全員が練習ラウンドでボールの落ちた位置から歩測してフロントエッジまでの距離を調べていました。それまで、日本ではコースにある残り100ヤード、150ヤードの木を目安にしていただけでした。こうしたゴルフ文化も日本に根付かせたのです。

樋口の活躍は、1996年日本女子プロゴルフ協会会長に就任してからも続きました。協会会員をトーナメントプロ部門とインストラクター部門に分けました。

「試合で戦う目的の会員と、質の高い指導を目指す会員がいていい」(樋口)。

さらに外部からの門戸を開放させ、非会員でも予選で資格を得れば試合に出場できるようにしました。宮里藍がその適用第1号となりました。
「ゴルファーとゴルフファンの拡大」をスローガンとし、子供やファンと選手の距離を縮めてきました。毎年オフの12月には、プロ1~2年目の選手対象に新人教育研修も始めました。ルール、トレーニング方法、用具などゴルフのことから、会話の仕方、テーブルマナー、一般常識など、社会人としての素養も学ばせています。

「プロになって金を稼げばいい、と考えている選手もいる。でも、試合が無くなったら稼ぐことができない、ということを教えてあげないといけないのです」(樋口)。

今では前夜祭から試合まで、女子プロの出で立ちは華やかになり、ファンが楽しめる存在になっています。その結果、ツアー数は男子を上回り、スポンサーも集まっています。これらの功績は、樋口の経験から培われてきたものです。

メジャー制覇の偉業と同時に、樋口が女子ゴルフ文化を日本に根付かせた功績は、実に大きいのです。

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