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「女子ゴルフ界を底上げした岡本綾子編」-日本女子ゴルフ界の牽引者、樋口久子、岡本綾子(2)

ゴルファー岡本が成功した要因は、中学、高校、社会人となり大和紡績で続けたソフトボールで投手を務めた経験にあったようです。

元々、運動が得意で小学校では男の子と野球で遊んでいたほどでした。中学でソフトボール部に入ると、顧問の先生からいきなり投手をやらされます。中学のレベルでは、一番運動神経がいい選手が投手に選ばれます。岡本はいきなり速い球が投げられました。

その後、高校でインターハイベスト4、国体準優勝。社会人になって大和紡績で国体優勝しています。ところが、岡本自身はソフトボールがあまり好きになれなかったようです。

高校時代、主将でありながら気の合わない同級生の頭にボールをぶつけ入院させ、ショックでボールが投げられなくなったり、社会人でも捕手と犬猿の仲で練習が嫌いだった、と岡本自身が日本経済新聞「私の履歴書」に書いています。
チームプレーが性格的に合わなかったのかもしれませんが、間違いなく高校時代の猛練習で足腰、体幹が鍛えられたのがその後のゴルフに役立ったのでしょう。岡本はプロデビューから「飛ばし屋」として知られていました。

ゴルフを始めたのは、ソフトボール部を退部してブラブラしていた時にソフトボール部部長に誘われ、ゴルフ練習場に行ったのがきっかけ。この時も飛距離で周囲を驚かせました。

岡本のスイングは、その絶頂期に「まれに見る綺麗なスイング」「力をまったく入れてないようなスイングで飛距離は当時のナンバーワン」「ボールが曲がらない」と絶賛されました。ソフトボールで培った体力と、やはりゴルフが性にあっていたようです。

1973年、22歳で大阪の池田CCに研修生として入社。キャディをしながらゴルフの本を読み、男子研修生に質問して猛練習しました。ソフトボールでは嫌いだった練習も、ゴルフの練習は熱中しました。

見る見る上達した岡本は、翌1974年に早くもプロテストを受験します。しかし、最終ホールでOBを出してしまい1打差で不合格。それでも熱心に練習して、同年10月2回目の挑戦で合格します。

プロデビューした1975年の11月に早くも初優勝。美津濃トーナメント最終日で樋口久子、同期のライバル大迫たつ子と最終組で回り、優勝をもぎ取りました。

この時、カメラマンが樋口に岡本と握手する写真を取りたいと要請するも、樋口は「嫌よ」の一言。この言葉がその後、思わぬ憶測を生むことになりました。

元々、岡本は子供の頃から海外への憧れを持っていました。ソフトボールで国体優勝のご褒美でハワイに行きましたが、その時の体験で益々海外指向が強くなりました。プロ3年目で賞金ランキング3位になると、岡本は米ツアー予選会に挑戦しますが落選します。この時、日本で賞金女王になって3年後に米ツアー挑戦を決意しました。

1979年の国内メジャー、日本女子プロ選手権は今でも語り継がれる名勝負でした。飛距離でダントツの岡本。当時女子プロのドライバー飛距離は210~220ヤードでしたが、岡本は240~250ヤード飛ばしました。そこに同期の大迫たつ子が食い下がりました。

互いにバーディーを取り合う死闘。3日間、54ホールの試合で岡本の優勝したスコアは17アンダー。当時の世界最小スコアを記録しました。

樋口久子が「女子でもこんなスコアが出せるの?」と驚き、出場していた森口祐子は「同じコースでプレーする競技者でありながら、ギャラリーとして引き込まれたのは後にも先にもこの試合だけ」と振り返りました。

1981年、年間8勝を挙げ賞金獲得総額が初めて3000万円を突破、樋口久子を抜いて初めて賞金女王に輝きます。米ツアー予選会にも合格し、米ツアーに本格挑戦します。

翌年、いったん帰って国内大会で優勝するも、「アメリカで1年を通してツアーに出たい」との思いが強くなり、日本女子ゴルフ協会に休会届けを出して1983年、アメリカに向かいました。それでも「岡本は日本を捨てた」と批判されてしまうのです。
83年あっさり米ツアー優勝を飾ると、翌84年には3勝と岡本は着々とタイトルを重ねます。この年、こんな出来事がありました。

米ツアー最終戦は日本の広島で開催されました。岡本と一緒にラウンドしていた首位のスティーブンソンがダブルボギーを叩いた時、ギャラリーから「ナイスボギー」の声が。

それを聞いた岡本は「恥ずかしいと思わないの」と大声を上げると同時に泣き出し、ギャラリーに抗議しました。泣き止まず、プレーできない岡本に「ゆっくりやればいいのよ」と声をかけたのは、そのスティーブンソンでした。

この頃から、岡本は腰痛に悩まされていくようになるのです。痛み止め注射を打って試合に出ることもあり、左半身が痺れることも。我慢できなくなって医者にいくと、椎間板ヘルニヤと診断され、手術を受けました。引退の可能性もあった車椅子での療養生活から復帰しますが、それからは腰痛との戦いになりました。

同時に、この頃の岡本のゴルフは絶頂期でした。アイアンショットでは当たった瞬間、ボールがどこへ飛んでいくかが分かるほど感覚が研ぎ澄まされることがありました。ただ、決まって直後に腰痛に見舞われました。

腰痛との戦いは、岡本にとって「ゴルフができる時にやり残さないように」との思いを強くしました。医者からは、「このままゴルフを続けていれば必ずまた悪くなる」と言われていたのです。

1987年は腰の具合も良く、成績も良くなりました。全米女子オープンは豪雨順延で大会が6日間に渡る死闘の中、ローラ・デービース、ジョアン・カーナーと死闘を繰り広げ、惜しくも2位に終わります。この年、単独2位を4回、2位タイを2回で、LPGA史上初めてのアメリカ人以外の賞金女王に輝きました。
11月の最終戦、ライバルのベッツィ・キングが3位以下なら逆転する場面で、最終日までキングは10位。

「手が震えてキャディやギャラリーに笑われた。深呼吸すると不思議に震えが止まった」(岡本)

この時の試合内容はほとんど覚えていないという。岡本は2位。気がついたら、米ツアー仲間に肩車されていた。「言葉にならなかった」(岡本)

52試合出場したメジャーで優勝はできなかったが、2位が6回、3位が4回。しかし、1982年から10年間で17回も優勝しました。もちろん日本人最高の成績です。40歳を超えた岡本は、本人はホームシックと言いますが、日本に帰ることを決めます。

帰国後も1993年の日本女子オープンで優勝しましたが、やはり時折襲ってくる腰痛に悩まされました。アメリカの主治医の元に戻って何度か手術を受けましたが、1999年のカトキチクイーンズの優勝が最後となりました。

腰をだましだまし出場しましたが、2005年でツアー参加をやめます。それでも国内で44勝ものタイトルを奪っています。

現在、広島市郊外に住み、「半農半ゴルフ生活」を送っています。2007年に契約先のミズノの依頼で、服部真夕の指導を始めます。以来、表純子、青山加織、森田理香子、若林舞衣子を指導し、「チーム岡本」として指導しています。
さて、岡本綾子と樋口久子といえば、写真拒否事件に始まって長らく不仲説が流れていました。しかし、岡本が1977年、初めて米ツアー予選会に挑戦した時に付き添ったのは、樋口でした。また、岡本が「アメリカで生活しながら米ツアーに挑戦」を相談したもの樋口で、その後押しをしたのも樋口でした。

日本女子ゴルフ協会会長を樋口が2011年に辞任し、その後任に岡本ではなく小林浩美が就任した時も、2人の不仲が囁かれました。真相は樋口が会長に就任時に「次は岡本さんがやって」と要請しましたが、当時岡本は甲状腺障害を患っており、身体が持たないので固辞していたのです。

決して2人は不仲ではなく、ライバルとして火花も散らした時期も、互いにリスペクトする存在として認め合っていたのです。間違いなく日本女子ゴルフ界を牽引し、今の人気を支えてきたのが、この2人なのです。

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