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日本にいた伝説のゴルファー②プロよりも強かったサラリーマン、中部銀次郎編

中部が初めて日本アマを制したのは大学生時代の1962年でした。学生時代に2回優勝すると、卒業して一般会社に就職。サラリーマンを続けながら日本アマを通算6回優勝、1967年の西日本オープンでは、プロを破って優勝しました。

記録もすごいことですが、ゴルフに対する精神性を物語る多くの逸話によって、中部は圧倒的な存在となるのです。

ある試合当日のことでした。前夜からの雨が降り続き、天気予報でも雨。参加選手達の表情も冴えません。2階建ての打撃練習場は下の階こそ屋根がありますが、上の階は雨ざらし。皆、下の打席の順番待ちをしている中、たった一人、上の階でずぶ濡れになりながらボールを打ち続けているのが中部でした。

中部の考えはこうです。

「どうせ一日中雨の中でプレーして濡れるのであれば、スタート前の一時雨をしのいでも同じ。プレーしながら濡れていくのは気も滅入る。いっそのこと、試合で濡れるのを覚悟して、練習から雨の中でボールを打つことに慣れ、心と体の準備をしておく」

中部の雨のエピソードがもう一つ。

やはり試合前に連日雨が続き、フェアウェイもぬかるみコースコンディションは最悪。選手たちはカジュアルウォーターの救済を受け、ボールをドロップして打っていました。中には無理やり水の存在を主張して救済を受ける者も。

そんな中で、中部だけは一度もボールに触れることなく、プレーを続けたのです。中部は単にボールに触れないで打つ事が、ゴルフのプレーのリズムにベストであると信じていたからです。

こんな中部の行為に対し、「道楽の極み」などと揶揄した人もいました。「勝負なのだから、受けられるメリットは受けるべき」との考えです。

試合後の中部の言葉はこうでした。

「たとえ救済を受けた場所にボールを移しても、そこが最善のライとは限らない。もっとほかにいい所があったのではないかと、心のどこかに動揺が起きる。それが必ずショットに反映し、スコアの乱れにつながる」

あくまで精神の充実を図るための選択でした。

1978年のこの雨の試合で、中部は2位に7打差をつけて6度目の日本アマチャンピオンに輝きました。36歳の時でした。

中部は、大洋漁業(現マルハニチロ)副社長だった中部利三郎の3男として、1942年に下関で生まれました。幼い頃病弱だった銀次郎の体を気遣い、父は銀次郎が小学4年生の時、門司ゴルフ倶楽部に一緒に連れて行ったのがゴルフとの出会いでした。

はじめは遊びだった中部ですが、それでも6年生になった時にはハンデ20の腕前に。中学に入ると毎日学校から帰るとコースに行き、日没までボールを打ち続けました。休日は1日2ラウンド。高校生になるとさらに上達していきます。

大学は2人の兄が進んだ慶応大学に進むために上京しましたが、「勉強とゴルフの両立は不可能」と帰ってしまいました。東京には芝の上から打つ練習場が少なく、コースが遠いため、学校に通いながらゴルフの練習をする環境が東京では無理、と判断したのです。

浪人を決めた中部は、アメリカで開催される「アイゼンハワートロフィー」の日本代表に選ばれました。その大会で渡米した際に、中部はジャック・ニクラウスの存在に衝撃を受けます。そのため将来プロを諦め、日本のトップアマを目指すと決めたと言われています。

この浪人中に日本アマに19歳で初出場しベスト4入り。翌年、甲南大学に入学すると在学中に2回日本アマタイトルを獲得します。卒業後は大洋漁業の関連会社に就職し、最強のサラリーマン・ゴルファーとなるのです。

中部の言葉に、「遊びのゴルフとか真剣にやるゴルフとかはない。ゴルフはゴルフだよ」があります。中部にとっては、日本アマの試合も友人とのラウンドも同じ真剣勝負でした。

この態度に触発された一人が青木功でした。青木が我孫子GCでキャディをしていた頃、中部一家がよくプレーしていました。環境がまったく違った2人でしたが、年齢が同じことから、親しく交わるようになりました。

中部は腕前がずっと下の人とラウンドする時も、いっさい手抜きをしませんでした。青木も中部の姿勢を見習い、どんな下手な相手とプレーしても手を抜かないと公言しています。

「一度手を抜く癖をつけると、本番の大事なところでそれが出てこないとも限らない」(青木)

さらに中部の残した言葉に、「ゴルファーの心構え?洗面台の水しぶきを拭き取ることです」があります。

行儀の良さは、ゴルフの上達に跳ね返ってくると考えていました。平常から背筋を伸ばしていれば、自然に正しいアドレスに入れる。洗面台が綺麗になれば、心が穏やかになる。そうすることで、1番ティーグラウンドに立っても、心静かにいられる。

「すべて自分のゴルフのため」と信じて日常生活をゴルフに捧げていた中部。居酒屋にいっても、トイレが汚かったら、黙ってその掃除をして出ていました。それも皆、自分のゴルフ向上のためと考えていたのです。

中部は、マルハのゴルフ場運営会社「大洋クラブ」の会長を勤めましたが、食道ガンで59歳の短い生涯を終えました。

「アマチュアの鏡」とも言われた中部のゴルフに対する態度、気高い精神性は彼を知る多くの人の心に生きており、語り継がれています。

「ゴルフが上手くなりたい」と思ったら、中部銀次郎の言葉を思い出すとモチベーションが上がりそうです。

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