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全米オープンでアメリカの本音を理解できるって本当?/誰かに話したくなるおもしろゴルフ話

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アメリカは元々イギリスの植民地でした。独立戦争を経て、1776年に13の州がイギリスから独立して、現在のアメリカになります。

多くの書物に登場するアメリカのゴルフ史では、1888年に“アップルツリー・ギャング”として有名なジョン・リードと4人の仲間がニューヨーク州ヨンカースでにセント・アンド・リュースGCを作ったことがアメリカののゴルフの幕開けということになっています。しかし、詳細に調べてみると、他の植民地と同じように、アメリカ大陸に入植したスコットランド人が独立前からゴルフを楽しんでいたことがわかります。

例えば、1743年にチャールストンの商社にゴルフクラブ9本、ゴルフボール432個がスコットランドから輸入された記録があるのです。ゴルフがプレーされていた揺るぎない証拠です。最古のゴルフ規則が明文化されたのが1744年ですから、1743年といえばその1年前なのです。

アメリカの歴史は建国から始まるのですから、その前のことは違う国のことなのかもしれないですけど、ほぼ外国人専用だったゴルフコースを自国のゴルフ史の始まりとしている日本とはずいぶんと違いがあるものです。

多種多様な民族が集まっているアメリカでは、自国という意識や概念を曖昧にはできない事情があるのでしょう。古くからゴルフが根付いていたということより、建国後にアメリカ人が自発的にゴルフコースを作ったという新しい歴史のほうが、スタートに相応しいと考えるのがアメリカのゴルファーの基本なのです。

アメリカの歴史は、このように理念や思考で作られている部分があります。

ウソのような本当の再戦の歴史

U.S. Open - Preview Day 1

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最初の全米オープンは、1895年にロードアイランド州のニューポートCCで行われて、イングランド出身のホーレス・ローリンズが優勝したとされています。この全米オープンから数えて(途中戦争などで中止されていた期間がありますが)今年で116回目となるわけです。

全米ゴルフ協会が発足したのが前年の1894年の12月ですので、統轄する団体ができたことで翌年にナショナルオープンが開かれるという順番なのだと当たり前のように語られています。しかし、事実はかなり違って人間ドラマが色々とあったのです。

この話を始める前に、一人のゴルファーの説明が必要になります。アメリカゴルフの父と呼ばれているチャールズ・マクドナルドです。

マクドナルドは、スコットランド出身の移民の子供で、アメリカのシカゴで生まれ育ちましたが、1872年に祖父が住んでいたスコットランドのセント・アンド・リュース大学に16歳で留学します。

留学先でマクドナルドは、ゴルフを覚えました。セント・アンド・リュースのオールドコースに通ってプレーしただけではなく、オールド・トム・モリスやヤング・トム・モリス(近代ゴルフに強い影響を与えたヒーローゴルファーの親子。1860年に始まった全英オープンにそれぞれ4回ずつ、合計8回も勝っている)のプレーも間近で見ることができたそうです。

ゴルフに魅了されて、腕前をメキメキと上げたマクドナルドは1875年に、アメリカのシカゴに帰国します。残念ながら、アメリカのゴルフ史では1888年が最初のゴルフクラブ発足ですので、十数年間はゴルフと離れた生活をします。

1892年、マクドナルドは有志を集めてシカゴGCを作ります。始めに9ホールのコースを作り、翌年に18ホールに拡張されました。1895年には、シカゴGCは全く新しい18ホールのコースを作り、コースの設計はマクドナルド自身がしました。マクドナルドは、ゴルフコース設計とアメリカにおけるゴルフの普及こそが天職だと活躍を始めます。

ゴルフコースを設計する際、設計料は受け取らずに、名誉会員になることを報酬としました。ゴルフ・アーキテクトという言葉はマクドナルドがゴルフコース設計家という意味で作り出したものです。設計したゴルフコースは決して多くはありませんが、ゴルフコースについての著作や投稿記事も多く残されていて、それらは、現在でもコース設計理論の“アメリカンクラシック”の礎として活かされています。

1894年の12月に、マクドナルドを中心にして全米ゴルフ協会が作られます。シカゴGC、ロードアイランド州のニューポートCC、セント・アンド・リュースGC、ニューヨーク州のシネコックヒルズGC、マサチューセッツ州のザ・カントリークラブの5つの倶楽部が母体となりました。まさに、アメリカのゴルフの父と呼ぶのに相応しい経歴です。

ドラマの現場を確認しましょう。年号をよく見てみるとわかりますが、1888年に始まったアメリカのゴルフは、たった数年で一気に広まっていったのです。そういうときには必ずチャンピオンを決めようという話が出てくるもので、アメリカも例外ではありませんでした。

当時はプロゴルファーの地位が低く、ゴルフはアマチュアが主役でした。始めに開催が呼びかけられたのは、全米アマだったのです。

1894年、ニューポートCCで36ホールストロークプレーで全米アマが開催されました。優勝したのはW・G・ローレンスで、チャールズ・マクドナルドは1打差の2位でした。

破れたマクドナルドは、猛烈に抗議をしました。全米アマなら全英アマのようにマッチプレーで行われるべきであること。コース内に不当な障害物(石の壁)があり、フェアなプレーができなかったこと。

冷静に考えれば、それらは言いがかりに過ぎませんでしたが、その主張は受け入れられて、翌月にニューヨーク州のセント・アンド・リュースGCに場所を変えて、第1回の全米アマは改めて開催されることになったのです。

仕切り直した全米アマは、開催コースのメンバーだったL・B・ストッダートがマッチプレーの決勝の最終ホールでマクドナルドを破って勝利しました。負けず嫌いなマクドナルドは、再び猛抗議をします。

「主催者がゴルフクラブで国を代表する団体ではないから全米アマとはいえない」

このとき同じコースを使って、全米アマに続いて、全米オープンも開催されました。参加者はたった4人。優勝したのは、ウィリー・ダン・ジュニアでした。驚くべきことに、またまた、マクドナルドの主張が認められるのです。全米アマも、全米オープンも無効となりました。

たとえそれが言い掛かりの可能性が高くとも、本場でゴルフを学んできた人の意見が重いのは日本のゴルフ史でも同じで、色々な悲劇を生み、現在でも尾を引いているものがあります。12月に全米ゴルフ協会が5つのクラブを母体にして急いで作られた理由は、他の要因もありますが、この一連の騒動が直接のきっかけになったのです。

発足した全米ゴルフ協会は、全米アマはマッチプレーで、全米オープンはストロークプレーで開催することを決定しました。

始めに書いた通り、翌年の1895年にニューポートCCで開催された全米オープンはホーレス・ローリンズが勝利しました。全米アマのほうは、やっとチャールズ・マクドナルドが勝って、初代チャンピオンになりました。公式な記録としては、それぞれ、これが第1回ということになります。

ちなみに、幻になってしまった最初の全米オープンの優勝者のウィリー・ダン・ジュニアは、死ぬまで本当の第1回の全米オープンの優勝者は自分だと言い続けていて、優勝者に贈られた優勝メダルを誇らしげに人に見せていたそうです。

ゴルフは、ときにその人の本性を剥き出しにします。全米オープンが生まれる直前のこれらのドラマは隠蔽されることなく、現在のゴルファーでも知ることができます。日本の場合は、名誉と伝統の名の下に隠されてしまいます。それはゴルフの怖い側面の警鐘であるのと同時に、アメリカという国は建前と本音を同じように公開することがあることを教えてくれているのです。

アメリカがゴルフで世界一になった理由

U.S. Open - Preview Day 2

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初代全米オープンチャンピオンであるホーレス・ローリンズから1910年のアレックス・スミスまで、全米オープンチャンピオンはたった一人を除いて、全て共通点があるゴルファーでした。共通していたのは、スコットランドを中心とした移民ゴルファーだったことです。

ただ一人の例外は、1900年に優勝したハリー・バードンで、彼は全英オープンに6回優勝したイングランド人で、ゴルフの普及を促すために積極的にアメリカ遠征をしたことでも知られていて、現在、多くの人が採用しているオーバーラッピンググリップを考案し、広めたことでも有名なプロゴルファーです。

バードンは別格としても、移民してきたゴルファーがアメリカのゴルフを支えて、育てていったのです。

スコットランドのセント・アンド・リュース出身者がジェームス・フォウリス、フレッド・ハードの2名。カーヌスティ出身はウイリー・スミス、アレックス・スミスの兄弟。ノースベリック出身のウイリー・アンダーソンは1901年に勝って、1904年から三連勝という未だに破られていない記録を残しました。

いずれも20代の若きプロゴルファーたちでしたが、1910年頃から急に彼らの活躍は見ることができなくなります。スコッチウィスキーのスコッチは“スコットランドの”という意味ですけど、多くのスコットランド出身者は大酒飲みで、若くして身体を壊して亡くなってしまったのです。

スコットランドの伝統の技術は、十数年で完全にアメリカに輸入されていました。アメリカ人ゴルファーによるアメリカゴルフの快進撃が始まっていきます。

もう少し先ですけど、飛ぶラバーボールと飛んで曲がりにくいスチールシャフトという用具の革命がアメリカで起きます。スコットランドから来たゴルフの指導者が短命であることが多かったことは、アメリカ的な自由な発想と合理的な決断の妨げにならなかったという皮肉な流れを作ったのです。

そして、1913年の全米オープンが開催されるのです。場所はボストンのザ・カントリークラブです。史上初めて、アメリカ人のアマチュアゴルファーが全米オープンを制します。

まだ二十歳のフランシス・ウイメットは、海を渡ってきたハリー・バードン、前年と前々年の全米オープンを二連勝していたアメリカ人のプロゴルファー、ジョン・マクダーモットというそうそうたる面々に勝ったのです。この全米オープンにもたくさんのドラマがありました。

まずは、本戦では勝負がつかずに3人がタイスコアで並んだので、翌日に18ホールのプレーオフが行われたことです。

当時の全米オープンは平日開催でした。予選1日で36ホールを行い48人が決勝に進み、新たに本戦として2日間で72ホールのストロークプレーをするという方式でした。ウイメットは、激しい雨という悪天候の中で、上がり3ホールで2つのバーディーをとり、トップの2人に追いついたのです。

ウイメット以外の2人は、全英オープンチャンピオンのハリー・バードンとエドワード・レイでした。下馬評では圧倒的に不利な状況でしたが、3人のプレーオフを観に来たギャラリーは1万人を越えたそうです。

前半は同じスコアでしたが、後半になってウイメットはチャージをかけ、そのまま逃げ切りました。また、ウイメットは予選の練習ラウンドのスタート直前に約束していたキャディーが別の選手に取られてしまって、途方に暮れていたところに現れた少年にキャディーをお願いして練習ラウンドをしました。

予選でもバッグを担ごうとしていた少年は、学校をサボってコースに来たことがばれてしまって予選の日にコースには来られませんでした。困っていたウィメットに、少年の弟、わずか10歳の少年が代わりを申し出るのです。ウィメットはあまりにも小さいので断るのですが、どうしても担ぐと言ってきかないので担いでもらうことにしました。

この幼いキャディーは、怖いもの知らずでした。ときには大人のようにウィメットを叱ったりもしたそうです。キャディーバッグを引きずるようにして歩いているキャディーの姿は今でも写真が残されています。それがウィメットをリラックスさせて、2人の進撃が開始されたのです。

プレーオフも含めると、7ラウンドもバッグを担いだ少年にも拍手が贈られました。ギャラリーが少年を讃えてカンパを集めた金額は、全米オープンで4位だったプロの賞金と同じぐらいだったといわれています。

ウイメットの全米オープンの勝利で、アメリカに最初のゴルフブームが来ました。アメリカのゴルフ界にはこの後、20年に1度ぐらいの頻度でブームに繋がるヒーローが出てきたり、ドラマが生まれたりしながら現在に繋がっているのです。

なによりも羨ましいのは、全米オープンにまつわる書籍だけでも軽く百冊を超えているというです。ゴルフはプレーする競技であり、観戦しても楽しめるゲームでもあります。そして、アメリカでは文化として嗜むための読むゴルフも成り立っているのです。

ドラマは語り部が継いで成熟していく側面があります。ゴルフはドラマに溢れているのに、アメリカだけにドラマがたくさんあるのは不思議な現象で、あり得ないことなのです。

レッスンものしか読まないし、見ないというゴルファーばかりの日本では、ゴルフの知識を得られる機会は限られてしまっています。語る人がいなければ、ドラマは消えてしまいます。本当はもっと知りたいと願っているゴルファーはたくさんいるはずです。

全米オープンは、ゴルフをもっと広めて、もっと充実させるというアメリカのゴルファーの強い意志を感じさせる大会です。今年もドラマがあると思います。時代の目撃者の一人として、楽しみながら語り継いでいきましょう。そういうつもりで見るメジャーは、全く違うものになるはずです。

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